2014/12/05

読書案内1

 

先月の創立記念日の文章に関連して、今回は“猫の学校”のエピソードについて紹介します。

 

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写真左は夏目漱石の『我が輩は猫である』(岩波文庫版)、右は司馬遼太郎の『街道をゆく 37 本郷界隈』(朝日文芸文庫版)です。

 

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明治3839 (190506) 年、『ホトヽギス』に掲載・発表された『猫』は、漱石が郁文館のすぐ東隣り(現在は日本医科大学敷地内、川端康成の手になる碑及び猫のモニュメントあり)の住居(現在は犬山市の明治村に保存)で執筆した、デビュー作ともいうべき小説であり、作品中第八回に登場する「落雲館中学校」は、我が郁文館がモデルです。

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郁文館と漱石宅との間に空き地があり、垣根がないため生徒が侵入して昼食の弁当ゴミを散らかしたり、グランドで盛んに行われていた野球のボールが空き地を越えて漱石宅に飛び込み、それを郁文館生が日に何度も取りに来ることに腹を立てた漱石が、「誰でも構わんから呼んで来いと云うのに、わからんか。校長でも幹事でも教頭でも……」と『猫』の中で下女に憤懣をぶつけています。

 

休み時間や放課後に、野球部のみならず一般の生徒も盛んに野球に興じていたようです。ちなみに郁文館野球部は「日本で最初の中等学校野球部」の一つといわれており、当時、学生野球で最強とされた一高(現「東京大学」)と近かったため、その影響を受けての創部と考えられますが、一高グランドで一緒に練習させてもらっていたこともあり、明治30年には練習試合として無敵だった一高に挑戦する機会を得て、2度にわたり勝利を収めるという大金星をあげるほどでした。

 

このときの郁文館には後に一高選手となった潮恵之輔(のち内相、文相)や、押川清(プロ野球創設にも関わり第一回野球殿堂入り)・大橋武太郎(早稲田大学野球部・初代主将)等など名選手が多くいて強く、当時の郁文館野球部は、まさに日本の中等学校野球(現在の高校野球)をリードする強豪校でした。


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明治35年当時の一高ナイン

中列左端が郁文館出身の潮恵之輔(遊撃)

(広瀬謙三『日本の野球史』 より)

 

さて、郁文館の創立者・棚橋一郎はそれ以前、東京大学予備門(第一高等中学校、のちの旧制第一高等学校の前身)で教壇に立っており、その時期に漱石が予備門に在籍していたことを考えると、生徒・夏目が教員・棚橋のことを認識していたと考える方が自然で、とすれば漱石は、既知の棚橋が校長だと知っていて、『猫』に「落雲館」の生徒を登場させたとも考えられるのです。

 

実際、広島にいた門下の鈴木三重吉に宛てた明治39年元日の書簡(前日、明治38年大晦日の文面)には、「ホトヽギスを見ましたか。裏の学校から抗議でもくればまた材料が出来て面白いと思っている。(中略)しまいには校長が何とか云ってくればいいと思う。喧嘩でもないと猫の材料が払底でいかん」と書いており、『猫』執筆のネタとして郁文館が貢献していたという見方をすることもできるのです。

 

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三好行雄編 『漱石書簡集』(岩波文庫版)

とはいえ、バンカラ気質溢れる当時の生徒たちとの“ダムダム弾”をめぐるやり取りは、『猫』では面白おかしく描かれているものの、現代風に考えれば「生徒による近隣への迷惑」に違いないことですので、この場を借りて、漱石先生には心よりお詫びを申し上げたいと思います。

 

ちなみに、当時の生徒に「申し訳ない」というような意識はおそらくあまり無かったでしょう。郁文館OBの友人から話を聞いていた和辻哲郎の文章を借りれば(『埋もれた日本』「漱石に逢うまで」)、「漱石の書斎のそばの桐畠や檜の木の下にはいり込んで来て、弁当を食ったり、歌を唱ったり、「おめえ、知らねえ」という類の言葉で放談したりした悪童ども」は確かに郁文館生で、もちろん、作中の生徒と苦沙弥先生とのいざこざは、創作なので事実そのままではないものの、「・・・モデルにされた郁文館中学生たちにとっては、現実よりもその作中の世界の方がおもしろいのであった。自分たちがその中で活躍しているということから、ひいて自分たちの出ない場面に対しても強い興味が湧き、苦沙弥先生とその仲間に対する熱狂的なファンになっていた」ようです。


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和辻哲郎『埋もれた日本』(新潮文庫版)

明治38年3月卒業の14回生が学生時代を回顧し、そのあたりの様子を次のように語っています。
「・・・漱石氏「猫」の中に出て来る「落雲館生徒」が「ダムダム弾」を投げ込む一条は、私共が実はその当時の所謂「ヌスットウ」なのであった。(中略)あの「猫」が「ホトトギス」に掲載されたのは私共の一高の一年在学中のことで、その頃は夏目先生に英語を習っていた時のこととて、大喝采で落雲館事件の条を方々へ吹聴して廻った程であった」

(杉田直樹「在学時代の思い出」『郁文館学園五十年史』(『百年史』にも転載)より)

 

杉田は郁文館を卒業後、一高、東大を経て東京帝大助教授、名古屋大学教授となり、大正から昭和20年代にかけ精神医学の啓蒙者として知られた医学博士で、郁文館では前述した和辻哲郎の友人(春山武松、のち美術評論家として活躍)とも同級生でした。

 

もっとも漱石夫人の言(『漱石の思い出』「離縁の手紙」より)を借りると、「前の通りでどこかの中学生がボール投げをしていたのが、あやまってボールを家の庭中へ投げ込んだ。するとこいつけしからんとあって、逃げる中学生をつかまえて、その家に呶鳴り込んで行くといって根津権現の方へ引き立てて行ったというのです。・・・(中略)なんでも根津権現付近の相当のお宅の坊ちゃんだったとかいうことでした。よく裏の郁文館中学の生徒がボールを投げ込んだりしたのが根にあるので、とんだ災難に会われたことなのでしょう」とありますので、『猫』の文中にあるように実際に捕まって尋問されたのは、ウチの生徒ではなかったのかも知れません。

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夏目鏡子述 松岡譲筆録 『漱石の思い出』(文春文庫版)

 

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ところで、漱石ファンで、このエピソードをよく知っていた司馬遼太郎は、平成3(1991)年、『街道をゆく』にて“本郷界隈”を歩く際、郁文館を訪れる機会を設け、同書ではわざわざ「郁文館」という項目を立て、その時の様子を記しています。幸いなことに、この時は校外で出遭った制服姿の本校生徒が、学校までの道筋をきちんとお教えしたようで、『猫』に登場する明治の粗暴な学生たちとは異なり、“礼儀正しい、品のいい”生徒との評価を頂戴しました。

 

そして、放課後のクラブ活動の時間に、周囲が住宅に囲まれた校内の狭いグランドで、生徒が野球やテニスに興じる様子を、「市井と教育がせめぎあっているような観がある」と、彼らしい独特の言い回しで表現しており、漱石に「くさされた」ことを不憫に思われたのか、“気の毒な役回り”への“魂鎮め(たましずめ)”として、非常に好意的に書いてくださっているのです。

 

にもかかわらず、グランドにいるこの大作家に「やがてボールがするどく私の頭上をかすめた」ようで、幸いにもお怪我をさせるようなことはありませんでしたが、冷や汗ものです。


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この文章に続けて、司馬さんは「まことに郁郁乎である。孔子がいうこのことばには、伝統という語感が入っているから、その外()れボールが、夏と殷のむかしをふまえているようで、おかしかった。」と郁文館の校名の由来にまで想いを馳せていただき、誠に感慨に堪えません。

 

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どんな形であるにせよ、明治の文豪と昭和・平成の国民的人気作家のお二人に、作品中に学園を登場させていただいたことは、大変光栄かつ名誉なことと思います。生徒にはこのエピソードを、誇りをもって語り継いでいきます。

 

校長 宮崎 宏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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